1袋のジャガイモを持った人間の話
人は皆1つの麻袋にいっぱいのジャガイモを持っているとします。そのジャガイモでいろいろなおいしい料理を作ることができます。でも、そのジャガイモを使い切ると食べるものがなくなってしまいます。だから、麻袋の中のジャガイモをいくつか選んで、種芋として次に使えるジャガイモを生産することが大切だと考えます。(種芋は別のものを購入して植えないと、同種の病気が広がる可能性が高いらしいので正確には違いますが…)
これは、特に自らの頭を使って製作をする人に特に当てはまるものだと感じます。
自分が応援している作曲家は、人の頭から出てきた「文化的な」ものからインプットを行うことが苦手なようで、インプットしかできない私からすると驚き桃の木山椒の木どころじゃない驚嘆を覚えました。
いい機会だと思うので、自分がやめられないインプットの話をしようかと思います。
先ほど挙げた「文化的な」ものとは、例えば本であったり、人の話であったりするのですが、これに私は「授業」を加えさせてもらいます。(これは先述の作曲家は授業/講義は聴けルトのことだったので「文化的な」ものから外させてもらいます)
これに対して、彼がインスピレーションを受けるものを「自然的な」ものと定義します。彼は江ノ島周辺に行ったときに永遠に作曲をしていました。そこにいることで得ることのできる何かを感じるのでしょう。
さて、本題ですが、自分は写真や文章、音楽、絵画など全てにおいて自分を表現する手段を持ちません。これは、単に練習不足が原因で、才能がなかったとかいう以前の問題で、アウトプットに時間を割くくらいならより多くの情報を知りたいと思ったことが一番の要因だと分析します(博物学を目指したのはこれが理由なのはまた別の話)。だからこそ、彼のアウトプット>インプットなのが理解できないのです。だからと言って彼を軽蔑するとか、距離を置くとかそういうことはないのですが。
アウトプットのできる人間をとても尊敬できる理由はそこにありますし、簡単にアウトプットをしろという人に疑念を抱くのも同様です。先日、とあるカメラをお借りしたことをきっかけに、ほぼ毎日インスタグラムを更新することに決めたのですが、余りにも大変で、撮った写真をたった一枚上げるのは撮って出しであっても億劫になるのを知って、より深く感じるようになりました。
それでもなお、自分はインプット>アウトプットの方が確実に身のためになると思います。人の持つ制作活動の限界量は袋いっぱいのジャガイモに過ぎないからです。その場のインプレッションでジャガイモが2、3個増えようが、来年の収穫のために種芋にした方が圧倒的に身のためになり、さらにはジャガイモを長期間安定的に増やす方法を学ぶこともできます。
このジャガイモは、知識や知恵の量やアイデアのストックにも置き換えられますし、時間のことと考えることもできます。
アウトプットには半端ない時間と労力がかかります。頭を使って自分の思っていること、考えていること、その軌跡をどんな方法であれ形にしなければならないからです。しかし、それを億劫と妥協してしまえば、ジャガイモは腐ります。腐らせないために、インプットをしたり失敗を覚悟でアウトプットの練習をする必要があります。
理想としては、常にアウトプットを続け、隙間時間や行き詰まったときにインプットをすることなのですが、それをできるのは仕事にしている人か超人です。
では、どのようにインプットをするのがいいのでしょうか。人生20年インプットを続けてきた私が考えるのは以下の3つです。
一つ目は文字を読むこと。ってかこれがほぼ全てと言っても過言ではないです。どんなジャンルでもいいし、内容が気に食わなくてもいい。とにかく読み続けて読み終わることが大切。小説であれ、解説書であれ、書き手が何を言いたいのか何を伝えたいのか。それにまつわる背景を知り考える。さらには自分の経験を交わらせて自らの意見を立ち上げる。だから内容が合わなくてもいいんです。自分が考える世界とは違う見え方を知り、相手が間違っていると思うためには自分の意見をぶつけなければならないのです。そこで新たな自分の世界を生み出せることは間違いありません。より広い「自分の世界」を作るためにはジャンルに拘ったりするのは良くないですが、とにかく一つでも多くの文章を読むことに価値があります。
気をつけなければならないのは、事実と空想の正しい判定です。例えば、ハリーポッターを読んで、魔法がこの世の中にあると思う人はなかなか少ないかと思いますが、より現実に即したフィクションは時に「自分の世界」を蝕むこともあります。所謂似非科学もここに該当すると考えます。今の時代、本の制作という正しい知識を蒸留するシステムが高度な情報化社会の進展により崩れつつあるので、事実の判定は各個人がやらねばならない大変な作業となっているので、それを行うためにもまた文章を読まなければなりません。これが私の思う「文字を読むことが全て」と繋がるのですが。兎に角、インプットの基本は文字を読むことに始まると考えます。
読むものはなんでもいいです。どんな機会から読み始めてもいいです。自分はカメラ機材について調べるのが好きなので、いろんな人が書くブログを読むことも「読む」インプットの一つと考えています。各人ごとのカメラ機材観を知れるので面白いですよ。たまに技術的な面を通り越して判断している人もいるので、そういう時にメーカーのHPやもっと詳しい人の文献をあたる(事実の判定する)ことも重要です。
二つ目は、人の話を聞くこと。文字を読むことでできた自分の世界観を、文章より身近に更新していけるものだと思います。友達と会話したり、テレビやYouTubeを見たり、ラジオを聞いたっていい。文字化されていない人の声を聞き、文字を読むのと同じように「自分の世界」とのすり合わせを行い、また自分の意見を補強する。やってることは同じでも、文章とは違いより刹那的になります。(YouTubeは巻き戻したりできますが、そういうことを言っているわけではないです)
瞬間的に相手の意見•主義•主張を理解し(納得する必要は更々ありません)、意見に対し同調するのか対立の形を取るのかを決めずともそれに対する自らの意見を持つことが聞くことのインプットで大事なことだと私は考えます。これが会話であれば尚更、相手の発言の後、自分の返答が必要になるのですから、自分のそこでの立場等も考えての発言となると、もはやインプットの域を超えてる気もしますが…
聞くことにおける、読むことと違って大変で危ういところは、簡単に話題を他者化できてしまうことです。読むことの項で「自らの経験と交わらせて」と言いましたが、文章と違い聞くことは明確な他者がいるので、自分に関係のない話だと切り捨ててしまうことが容易に起こり得るのです。これは見たくない聞きたくないことに目や耳を塞ぐこととは違います。聞くことは聞くものの、聞き流すことで考えることを放棄することが、人間は常に音を取り込み続けているために、簡単にできてしまいます。とても勿体ないことです。そこには次の次に取り掛かるアウトプットの為に必要なヒントが転がっているかもしれないのに。
また、ここでも読むことと同じように事実判定が必要になってきます。更には、文章よりも発話者の意思が籠りやすい為に極端に行き過ぎた意見ではないかという確認も必要になってきます。行き過ぎた意見を「自分の世界」とすり合わせることは、「自分の世界」に大きな反動をもたらす可能性がある為に意見を薄めてすり合わせを行うことも時に手段として用いらなければならないことを留意してください。
三つ目は、自分の目指すアウトプットの形に合わせたインプットをすること。これが一番簡単にも思えるし、とても難しいようにも思えます。例えば、作曲をするなら自分の制作したいジャンルの曲や好きなアーティストの曲を聴く。更には違うジャンルや理論•基礎の部分を学ぶ。今までの二種のインプットとは違い自分の好きなことに近いから敷居が低いことが一番簡単に思える要因です。ここで重要なのは、勿論自分が夢想するアウトプットの形に近いものを見聞きすることではなく、同じ枠内(写真であれば写真、小説であれば小説)でなるべくジャンルが離れているものを見て、どうしてこれは自分が創りたいものとは別の方向にあるのかを考えることです。また、それを分析し、理解し、自分自身だけでなく他人を納得させられるほど(なぜ自分はこの人のジャンルは選ばない/選べないのか)の説明をできるようにする為に、他人の作品を見るための知識•背景•技術•素養が必要になります。これを身につけるのがとても難しいように思える理由で、アウトプットをしながらでないと(しかも高度な)できないことだと私が感じているからです。
以前、この話題を始めるきっかけとなった彼と話したことがあるのですが、物事にはいくつかの壁があり、まずは始めるときの壁。それを越すと楽しくてしょうがない。でもじきに2つめの壁にぶつかる。それは精度を上げる壁。またそれを越すと楽しい。そしてまた壁にぶつかる。それを2、3繰り返すうちにぶつかるのが才能の壁。素人目に見たら十分素晴らしい技術も本人から見たらまだ先があり、それを越すのが難しく、果てには超えられない時が来るということです。三つ目のインプットはこの才能の壁を実感する一番大きなきっかけであり、おそらくそれを超えるためのヒントのキーがここに眠っているだろうと私は考えます。この三つ目のインプットは継続しない=もうそこでの創作活動を終了するということだという認識は万人において共通でしょう。
ここまで書いておいてなんですが、一番効率のいいインプット方法があります。大学受験です。五教科七科目を大学入学共通テストで実力で8割を超えるくらいの知識量を蓄えれば、それは立派な知識の土台となります。そこに至るまでに必要な数学や理科の科学的確証を得た知識、社会教科におけるこの世界のあり方の認識、そして国語と英語を演習する中で読むテクストにおける筆者の意見に対する見識育成。おそらくは、高校や予備校の授業で先生がするであろう学習内容に関連した雑談はあなたの世界を広げます。これほどインプットに適した土壌はありません。まぁ、この機会を逃しても地道に続けることが重要なのですが…
ここまで長々と書いてきましたが、結局何が言いたいかというと、インプットをしてより確固たる大きな「自分の世界」を作ることがあらゆる場面で自分自身を守る知恵の盾になり、創作の矛になりうるということです。散々言ってきた「自分の世界」ですが、今更説明をしますが、自分から見た世界の見え方のことを指します。一人の人間が世界の全てを理解することはもちろん不可能です。なので人間は科学を用いてより合理的により多くの人が納得できる形で世界を分析します。でも、些細なことでも他人同士全く同じ視点で物事を語ることは絶対にできません。誰かが嬉しい時には必ず誰かの犠牲と悲しみが生まれています。それを一つの視点で語ることはできないように。そして、自分自身も一人ではありません。親の前、友達の前、バイト先の雇用主の前それぞれで別の顔をしているし、内面の自分も何人もいるので、本当の自分は一人に確定しない。色々な自分の寄せ集めで、社会で上手く生きる為に一人を演じています。そしてその「一人」がその場でどう意見を求められているのかを考えるのが社会のおける一人の人のあり方です。それを何人もが存在する自分の中で、この世界を見た時に一番整合性が取れた形を探す為にインプットを行うのです。そしてアウトプットはその「自分の世界」の一部を切り取り他人に見せるという行為に過ぎないのです。だから、その切り取りに耐えうる為により広い「自分の世界」を作らなければならない。
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